大判例

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最高裁判所第三小法廷 昭和45年(あ)1768号 決定

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人後藤昌次郎、同荻原健二連名の上告趣意は、憲法三一条違反をいうが、その実質は、原審のした破棄自判の措置が刑訴法四〇〇条但書に違反するというものであつて、単なる法令違反の主張に帰し、適法な上告理由にあたらない(なお、控訴審がなんら事実の取調をしないで第一審判決より重い刑を科しても刑訴法四〇〇条を但書に違反しないことは、所論の引用する当裁判所大法廷判決の判示するとおりである。)。弁護人荻原健二単独名義の上告趣意は、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

また、記録を検討しても、本件につき刑訴法四一一条を適用すべきものとは認められない。

よつて、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官松本正雄の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

裁判官松本正雄の反対意見は、次のとおりである。

原判決は、第一審が被告人に言い渡した禁錮一年但し四年間刑の執行猶予という判決を破棄自判し、禁錮六月の実刑を言い渡したのであるが、記録によれば、その手続は書面上の調査のみによつたものであり、事実の取調を行なつた形跡はなんら認められない。このように第一審の執行猶予を付した判決を控訴審が破棄し自判によつて実刑に改めるには、控訴審みずから事実の取調を行なうことを要し、そうでなければ第一審に事件を差し戻すべきものである。このことは、現行刑事訴訟における直接審理主義、口頭審理主義、口頭弁論主義の要請から当然に帰結されるところであつて、単に書面上の審理をしたのみで、被告人の意見、弁解すらも直接聴いていないところの控訴審がみずから直ちに執行猶予を実刑に変える判決をするということは、人権の保護に欠けるおそれがあり、甚だ不当といわなければならない。この点において、原判決には刑訴法四〇〇条但書の解釈、適用を誤つた違法があり、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかであつて、原判決を破棄しなければ著しく正義に反する。よつて、わたくしは、刑訴法四一一条一号により原判決を破棄し、本件を原審に差し戻すのが相当であると考える。(田中二郎 下村三郎 松本正雄 関根小郷)

弁護人の上告趣意

第一点 憲法三一条違反

原判決は、刑事訴訟法四〇〇条に反し、ひいては憲法三一条に反する。

一、右法条但書は、「控訴裁判所は、訴訟記録並に原裁判所及び控訴裁判所において取調べた証拠によつて、直ちに判決をすることができるものと認めるときは、被告事件について更に判決をすることが、できる」と、控訴審における破棄自判できる場合の手続上の要件を定めている。

事後審たるを原則とする控訴審としての性格および被告人の権利保護の要請から、控訴審において新たな証拠調をすることなく、被告人に不利に原判決を破棄して自判してはならないのである。

しかるに、原審は、新たな証拠調をすることなく、執行猶予を付した第一審判決を破棄して実刑を言渡した。右は刑訴法四〇〇条但書に反し、ひいては憲法三一条に反するものである。

二、現行刑訴法における控訴審は事後審であつて、その審査および取調は原判決に控訴理由ないし破棄理由があるかどうかを判するためのもので、自判する場合は全体として続審としての性格を帯びることになる。したがつて、刑訴法四〇〇条但書の規定は、控訴審が被告事件について判決するに熟した場合例外的に自判することを認めたものにほかならない。

右但書に「及び控訴裁判所において取調べた証拠によつて」とあるのは、「控訴審で証拠の取調をしたときはその結果をも加えて」と曲解されるのが通弊であるが、控訴審が自判する場合は、その前提として証拠の取調が行われるべきこと、すなわち、証拠の取調をしなければ自判することができないという原則を表明したものである。文理上もそうであるし、道理の上からもそうでなければならない。

現行刑訴法は犯罪事実の認定につき、直接主義、弁論主義を基本原則とするが、控訴審の書面審理は控訴理由の有無を審査するためのものであつて、犯罪事実そのものについて心証を得るためのものではない。直接審理をせず口頭弁論を経ない書面審理ということはまさにそのためにのみ許されるのであり、かような書面審理のみによつて犯罪事実の有無を認定することは、刑訴法の基本原則に反する。ひいては憲法三一条にも反する。

憲法三一条は、合衆国憲法修正五条の「法律の適正な手続」(due Process of law)の条項に由来するものであり、その重要な内容として「告知と聴聞」(notice and hearing」が挙げられている。

これは、刑事手続においては、被告人の意見、弁解を聴いて裁判すべきことを意味する。わが現行刑訴法は、英米法の当事者主義を取入れているのであつて、そこに支配する直接主義、弁論主義も当事者主義的観点から理解されなければならない。

かようにして、裁判所が事実問題について少なくとも積極的な判断をするには、直接に証拠を取調べた上でする必要があるのである(判例評論七号一九頁、高田卓爾)。

二、この点に関する最高裁判例の流れをみると、

(一) 昭二六・一・一九第二小法廷判決(刑集五巻一号四二四頁)――懲役一年六月執行猶予四年の一審判決を控訴審が破棄し、自ら事実の取調をすることなく懲役八月の自判をしたのを適法としたもの

(二) 昭二六・二・二二第一小法廷決定(刑集五巻三号四二九頁――一審が犯罪の証明がないという理由で無罪とした事件について、二審が事実の取調をしないで刑訴四〇〇条但書に従い有罪の判決をすることは適法であるとしたもの

(三) 昭二九・六・八第三小法廷(刑集八巻六号八二一頁)――一審無罪を控訴審が事実の取調をせず有罪の自判をしたのを適法としたもの(小林裁判官反対意見)。

(四) 昭三〇・六・二二大法廷判決(刑集九巻八号一一八九頁)――三鷹事件に関するもので、無期懲役の一審判決を、控訴審が取調をせず自判して死刑を宣告したもの(栗山小谷、谷村、小林四裁判官が反対意見)。

(五) 昭三一・七・一八大法廷判決(刑集一〇巻七号一一七三頁)――一審が懲役刑の執行猶予を言渡した場合に、控訴審が事実の取調をせず実刑を言渡しても刑訴法四〇〇条但書に反しないとするもの(栗山、真野小谷、谷村、小林の五裁判官が反対意見)。

判例の流れをみても、量刑の問題について反対意見が漸増していることに注意すべきである。

右三鷹事件判決において谷村裁判官は次のように述べている。

「刑訴四〇〇条但書のできた趣旨が訴訟経済の見地から出ていることに鑑みるとき、控訴審で破棄するあらゆる場合に常に必ず事実の取調をしなければならないものとすることは法の趣旨に副わないことになる、といつてまた如何なる事案についても事実の取調をしないで裁判所の裁量で破棄自判できるとすることも正当でないのであり、自らそこに限界があるのである。そしてその限界を何処に求めるかということになるのであるが、その概念としては、直ちに破棄自判してもその結果が被告人の基本的権利を害さない場合、例えば事実の認定に変りなくただ法令の適用を是正するために破棄自判する場合、或は刑の廃止または大赦があつて原判決を破棄して免訴の言渡をする場合の如きは典型的な事例であつて、これを一審に差戻したりまた自ら事実の取調をしなければ自判ができないとすることは徒らに無用の手続を繰り返すにすぎないから、かような場合は直ちに破棄自判することが訴訟経済であり、そして被告人に不利益を与えるものでないから但書の規定に適合する場合である。要するにその限界は訴訟経済と被告人の人権の保障とをにらみ合せ具体的事件について四〇〇条但書制定の趣旨の範囲を逸脱しないように判断すべきであり、苟も訴訟経済に名を藉り、被告人の基本的人権の保障を犠牲にすることがあつては法の趣旨に反するのである。この見地から私は前に引用した小法廷の判例の事案である(一)刑の執行猶予を取り消す場合、(二)無罪の判決を有罪に変更する場合と更に(三)一審の有期の懲役を無期としまたは無期有期の懲役を変更して死刑とするような場合において、直ちに破棄自判することはその限界を超える最も明らかな場合であるから、控訴の理由があると思料するにおいては一審に差し戻するべく、もし破棄自判する場合は自ら事実の取調をした上でなければこれをすることは許されないものと信ずる」

四、なお量刑不当を理由としてこれを破棄する場合について、「情状に関する事実は、罪となるべき事実でないから、厳格な証明により認定することを要しない」ということを理由に、訴訟記録及び一審で取調べた証拠だけで量刑ができると思えば控訴審は一審の刑を重くも軽くも改めて自判できるし、そうしたからといつて直接主義、弁論主義にも、また憲法の精神にも反しないとする見解があるが、被告人の運命にとつて、執行猶予と実刑では決定的な違いがあること、および本件についてはとくに注意を換起しなければならないのであるが、本件で量刑の重大な要素となつているのは、「罪となるべき事実」の有無ないし態容そのものであつて単なる情状だけではないということである。弁護人らはこれは一審判決の理由のくいちがいとして主張したのであるが、原判決は言葉のあやでごまかしたのである。

その不当性は別に論ずるが、本件では「罪となるべき事実」そのものによつて量刑が争われているのであつて、右の反論は妥当しないことを付記する。

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